2012年4月7日土曜日

先帝身投

さて、いよいよ、今回のクライマックス、壇ノ浦における安徳天皇の入水のお話です。
平家と言えば壇ノ浦でしょう…と思いきや、一連の壇ノ浦のどのお話も、連続ものになっており、この続きは次回のお楽しみに〜〜〜という構成になっており、とても一つなんて選べません。これは昔の琵琶法師達の、次も聴いてもらおうという営業戦略だな…などと思いながら読み進めてみると、この壇ノ浦の合戦、始めは船が何千艘といった軍勢全体の描写なのですが、その後は、個々の武将達の戦い振りの描写に移っていきます。ものすごく物量感のある迫力あるシーンだったような気がしていたのですが、一人一人の戦い振り、つまり死に様生き様のディテールを積み重ねてこその戦の迫力なのだと言うことがあらためて分かります。

とても沢山面白い話があるので、ぜひ又別の機会にお聴き頂きたいとおもいますが、今回は、もう、平家にとっていよいよお終い、という安徳天皇の入水のお話をお聴かせいたします。

とても短いシーンです。

あらすじを見てみましょう。

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1185年(元暦二年)3月

大将軍の平知盛は小舟に乗って安徳天皇の船に赴き、「世の中は今はこれまでと見えました。見苦しいものをみんな、海へお投げ入れください」と言って自ら船を掃除した。知盛からの知らせで覚悟を決めた清盛の妻・二位殿は、落ち着いて喪服に着替え、三種の神器のうち、神璽を脇に抱え、宝剣を腰に差して八歳の安徳天皇を抱いて船ばたへ歩み出る。
「尼ぜ、私をどこへ連れていこうとするのだ」と問う安徳天皇に対し、二位殿は「極楽浄土という結構なところへお連れ申し上げますよ」と泣きながら答える。幼帝は涙を流しながら手を合わせて念仏を唱えたので、二位殿は幼帝を抱き、「波の下にも都がございます」と慰め、海中に身を投じた。

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たったこれだけなのですが、8歳の安徳天皇のあどけない様子が、運命とはいえ、命を絶たれなければならなかったむごさをいや増しており、本当に胸が痛くなります。二位尼は安徳天皇にとってはおばあちゃんにあたります。清盛亡き後、一門の運命を見守ってきた彼女にとっては、かねてからの覚悟で「私は女だが、敵には絶対に捕まらない。天皇のお供に参るのだ。志のある人は急いで後に続きなさい」といって、船端に歩み出ます。安徳天皇は海に向かう祖母を見て「どちらへ連れていこうとするのか」と聞きます。二位尼は「せっかく天皇に生まれたけれども、ご運は尽きてしまった。東に向かって伊勢大神宮にお暇を申し、西に向かって西方浄土から仏様達にお迎えにあずかろうとお念仏をお唱えなさいませ。この国は悲しい嫌な所ですから極楽浄土という結構な所に連れて行って差し上げますよ」と泣きながら申し上げます。すると8歳の安徳天皇は「御涙におぼれ」というのですから、激しく涙を流しながら、ちいさなかわいらしい手を合わせて言われたとおりにするのです。

…書いているだけでもこちらが御涙におぼれそうです…

「波の下にも都のさぶらふぞ」となぐさめ奉って千尋の底へぞ入給ふ。

…そんなもの、そんなもの、ないのに…いくら慰めても、結局は大人の都合で子供が犠牲になるのです。せめてこの幼い子には都があってほしいと願わずにはいられません。

原典平家物語はこの後、知盛を始め入水し命を絶つ人々や、宗盛親子のように往生際の悪さに味方から海へ蹴落とされるといった様々な平家の様子を描いています。

一ノ谷の合戦から一年、瀬戸内海を船で漂流し続けた平家一門。
その最盛は20年にも満たないものでした。

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構成段階から散々、スタッフに相談しながら、解説を舞台上で入れるか入れないかで悩みつつ、やはり今回もきっぱりと解説は入れないことに決めました。
まるごと原文の世界に浸って感じて下さい。

このブログに載せてきたあらすじや出来事の背景などは、当日のパンフレットでお読み頂けます。



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